Novel

雪の朝に



 こつこつという鈍い音で目が覚めた。
 うるさいうるさいと、頭から布団を被っても、少しするとまた同じくこつこつと聞こえる。
 ちょうど窓ガラスを何かが叩いているような鈍い音。
 ちょっとだけ布団を持ち上げて様子を窺う。この薄明るい感じはちょうど夜明けの頃か。夜半からずいぶんと冷え込んだ感じがしていて、部屋の中の空気は今もとても冷たい。
 少し前に夜が寒いんだよね、とこぼしていたら、有里が追加の毛布とパネルヒーターを持ってきてくれた。
 けれど正直そんなものじゃあ、部屋はほとんど暖まらない。
 つるっとした床材の上にはラグも敷いていないし、窓にはカーテンもない、おまけにドアには通気口が開いている。すきま風が通り放題だ。
 いっそエアコン……、と口に出したらすぐに、それならちゃんと部屋を借りたらどう? とぴしゃりと言われた。
 本当にその通りなのだが、好きな時に自由に資料を持ち出せるクラブハウス暮らしはとても便利だ。シャワーもランドリーもあるし、まあこれまではなんとかなっていた。
 あのうだるような夏でさえ乗り越えたんだから、冬もいけるんじゃないかと楽観視していたがこんな気温が続くようなら無理かもしれない。
 それにしても寒い。おかげで眠りがひどく浅かったような気がするし、今も布団にくるまっていても足先が冷たい。
「やっと眠れたと思ったら、なんだよ……ハトか?」
 窓の方角からしたような音に、ぶつぶつと文句を呟きながらも目を閉じて、もう一度夢の中へ戻ろうと試みる。

 けれど、こつこつとまたも音がする。よくよく聞くと何か声も聞こえる。
『監督』と。
 お騒がせの早起き鳥の正体は椿だったらしい。
 やれやれと、ひとつ溜息をついて布団を抜け出す。窓の外を見ると、つんつんと相変わらずどこかがはねている椿の頭と、大きな目が覗いている。
 冷たいサッシの感触に顔をしかめつつ、からりと窓を開けてやると、椿はウスッと頭を下げる。
「椿、こんな朝早くにどうした?」
「監督、雪ですよ。それであの、どうしてるかと思って」

 ふわふわと白い息を吐く椿の肩越しに見える外は、なるほど真っ白くなっていた。前の通路も、その向こうのグラウンドも。
 道理で寒かったはずだ。12月の半ばで東京は雪が降るのだったかと、記憶を辿る。けれど頭の中に浮かぶのは、イングランドの田舎のドカドカと雪の積もった風景ばかりだった。
「今年初めてですね」
 鼻の頭と頬を少し染めて、椿はなんだかうれしそうだ。反対にこちらはといえば、冷蔵庫から冷凍庫へとなった空気に鳥肌を立てている。
「寒い。とりあえず中入って」
 室内を振り返って、テレビ台の上に置いてあったキーホルダーに手を伸ばして取ると、椿に渡してやる。椿はチェーンの先で揺れるパッカを見てにこりとした。それは、いつもカギをどこかにやってしまうと何気なく言ったあとで、椿がくれたものだった。目立つほうが、探しやすいでしょうと。
 頭だけでも卵くらいの大きさのぬいぐるみは、良くできていると思う。その鮮やかな緑色は乱雑な部屋の中でも目につくので、本当に役立っている。

 前に有里にカギを失くした、と告げたらそれはもう怒られた。
「現金はそんなに無いけど、一応パソコンとか、選手のユニフォームとか大事なものが沢山あるんだから、カギの管理はちゃんとしてくれないと困ります!」
 本当にごもっとも、と頭を下げそれからはまだ失くしてない。といっても見当たらないときは誰も事務所にいない時間に、外に出かけないようになっただけだった。

 もし今度キーホルダーごと失くしてしまったら、と考える。椿はちょっと悲しそうな顔をするだろう。それはかなりイヤだった。有里に怒られても堪えなかったのに、全く、自分の中で順位がしっかりと出来つつあるな、と苦笑する。
 でも、しょうがない。



 
 外から回ってきた椿が今度はコンコンと、ドアをノックする。
 他に誰もいないとわかっているのに、なんて律儀なんだろう。
「入って」とベッドに腰かけたまま応える。
「おはよう、ございます。あの、雪積ってたら監督、朝ご飯とか買いに出るの困るかなと思って、途中で適当に買ってきました」
「ありがと、椿」
 パッカのカギと一緒に受け取ったコンビニの袋には、サンドイッチやカップのスープなどが入っていた。これはこれで助かるけど、今はそういう気分じゃない。
「でもね、寒いから、今すぐ椿があっためて」
「俺、そんなつもりじゃなくて。あの……」

 部屋の中へ入っても、椿は着ているダウンも脱ごうとしない。本当に様子を見に来ただけなのだろう。そして今、頭の中では寮の朝食の時間とか、あとどれだけここにいられるかとが駆け巡り、それからちょっとだけムラっとした。
 そんな顔をしている。
「うん、わかってるよ。でも今さ、すごく寒いんだ。たかだか雪が積もったからって、まだ眠いのに起こされて」
 半分は本気でそう言った。もう半分は寝起きの不機嫌さで口がすべった。
 椿はきゅっと唇をかむ。
 それから黙ってダウンを脱いだ。その下は練習用ジャージで、もしかしてそれで寝ていて着替えてもいないんじゃないかという気がした。
 ――そんなに急いで会いに来たのか。
 子供みたいに澄んだ眼を輝かせて。初めての雪を好きな人と一緒に見ようと。

 ああ、もう、参った、と息を吐く。
 椿のジャージにまくりあげる手がびくっと止まる。
 怖くない。怒ってもない。ただ、愛しいだけなんだ。

 誰にも言えない秘密の恋で、窮屈な思いもするけれど、そんな日々の中にも美しく心を震わせるものは確かにある。
 それを忘れてはいなかったか?
 年長だからと主導権を握った気で、恋愛の先にあるものは全部わかりきってるなんて思いこんでいた。
 この恋は、初めてのものなのに。 
 
 立ち上がって、固まったままの椿を優しく抱きしめる。触れた頬は冷たい。
「椿だって寒かったよな。一緒にあったまろう」
 赤みがかってる耳たぶをそっと食むと椿は、小さく声をあげる。
 間近にある真っ黒な瞳をのぞきこむと、そこにはまた情欲のかけらが戻ってきていた。


  
 布団に潜り込んで中でお互いの服を脱がせ合いながらキスを交わす。そうしているうちに、最初はひんやりしていた椿の足先もすぐに温かくなった。ほんとに、若者の発熱量は素晴らしい。
 自分の冷たい手足を遠慮なく絡ませてその熱を奪う。
「椿、あったかい。……あったかいから許す……」
「俺、すいません、ほんと調子に乗って……こんな時間に来ちゃって……」
「サプライズ、いいんじゃない?」
「でも……」
「少しくらい俺が寝ぼけててもさ、がつんと押し倒すくらいの勢いでくればいいんだよ」
「そんなことしたら、怒るじゃないスか…」
「わかんない。でも最初っからあきらめんなってこと。なあ、これどうすんの?」
 これは、もちろんいわずもがなの、ふたりの欲望の証。密着した腰を軽く揺すると、椿は「んっ……」と小さくのど声をあげて、ぎゅっと抱きしめる腕を強くした。
「が、我慢します……」
「そうなんだ」
「願かけっていうか、その、ボクサーも試合前には禁欲するって言うから……」
「――決勝まで大分あるよ?」
「だから、意味があるんス」
「俺は聞いてないけど」
「すいません……」
 
 ETUは後半調子をあげたといっても、リーグではせいぜい真ん中くらいまでしか順位を昇ることができなかった。それだけにシーズン最後の天皇杯に皆が懸けていた。
 なにしろ「ジャイアントキリング」が合言葉のような大会なのだから。
 でも決して手の届かない優勝ではない。

「それなら、元日の夜は椿のことさらっていって好きなようにしてもいいんだ?」
「はい」
「よーし、いい返事。じゃあ、年内はこれが最後の椿かあ」
 
 突然の禁欲宣言には驚いたけれど、それくらい気合いを入れてると思うと水を差すのもかわいそうだ。
 それでもやはりひとこと欲しかったと、裸の胸を、背中を撫でまわす。キスはどこまでOK? いいコでいるんだろう? なあ、椿。

 ひとしきり、おあづけ状態の椿を楽しんで、ようやく名残り惜しく身体を離す。起き上ってすばやく身支度を整えた椿が、じゃあ戻ります、と頭を下げる。
 布団を被ったままその姿を見てると、言いたくないが、ちょっと、そうほんのちょっとさびしくなった。そんな気がした。
 反応のなさに椿が首をかしげる。 
「監督?」
「あーやっぱ、送ってく」
「え、外寒いですよ?」
「だって椿がわざわざ教えに来てくれたのに、まだ雪をちゃんと見てない」
「じゃあ、少しだけ……」

 急いで服を着て、ベンチコートをひっかけて一緒に廊下へ出る。そういえば夜椿が来た後で、こうやって見送るのは初めてだったかもしれない。
 椿のうれしそうな顔は、これと二重の意味があるのかもしれないなと思う。  
 クラブハウスのドアを開け、積もった、といってもわずか数センチばかりの中に足を踏み出す。それでも降りたてのふわっとした雪に、靴はさくさくと沈む。
「あんまり積ってはないな」
「そう……スね」
 ゆっくりと歩を進めて辿りついたフェンスの向こうのグラウンドは、ようやく昇ってきた朝日を明るく反射して白く輝いていた。
「なんかいつもより広く感じる」
「椿は雪、珍しい?」
「そうじゃないスけど、こっちでは去年は積もらなかったから……」
「ああ、そういう年もあるよな、暖冬で」

 去年はこれほどの雪は降らなかった。
 去年は一緒に初雪を眺める相手はいなかった。
 けれど今はふたりでここにいる。
 今日の新雪のように柔らかい椿の心を感じる。胸がきゅっとした。愛している。本当に。

 傍らの手を探り当てて握る。冷気にさらされてその手はそんなに温かくもなかったけど。
「こういうの悪くないよ、うん」
 恥ずかしそうに頷いて、椿がにこりと笑う。そして繋いだ手をお互いの指が絡むように、握りかえてくる。
 そう、これなら対等だ。愛を、与え合おう。
 


 そんな風に、心がほっこりとしても悲しいことに反対に身体はどんどん冷えていく。
 思わずぶるっと震えると、椿がまた慌ててすいませんと謝る。
「監督は、もう部屋戻ってください。風邪ひいちゃいます」
「うーん、そうしようかね……。ごめんなヤワで」
 ムードぶちこわしで。鼻水もたれそうで。
「いや、あの、うれしかったっス」
 ――俺だってそうなんだよ、椿。
「じゃあ、椿の温もりの残るベッドへ戻るか……」
 こっそり忍んできた恋人は、またこっそりと帰っていく。そして何食わぬ顔で再登場する。それがいつものパターンだった。
 けれど今日に限っては、完全犯罪は無理のようだ。
 点々と残る足跡を見れば、誰かが部屋に寄ったことは一目瞭然だった。
 そして建物から出て来た、並んでいるふたり分の足跡もまた。

「椿、証拠が、ばっちりだな」
「え?」
 足元を指して、それからずっと足跡をたどるようにしてやると、椿はその意味にやっと気付いたようで、慌ててその場で足踏みをした。
「すいません…っ。俺、消しながら帰ります!」
「いいよ」
「でも」
「なんか、いいじゃん。ふたりのが並んでて」
「……はい」
「雪中の足跡はミステリーにつきものだし。たまにはそういうのも楽しいと思わない?」
 傍から見れば監督と選手という、ゴシップにもならないような間柄の自分たちだから、せめてうわさの種くらい播いてもいいだろう。
「それなら、あの……」
「ん?」
 なんだろう、と思う間もなく抱きしめられる。続いてキス。冷たい、と感じた唇はすぐにぬるく解ける。

「秘密で、ミステリーで、謎々っス!」
 唇を離して、椿は照れたように笑う。それから、じゃあまた後で、と積った雪の中をすべりもせずに器用に走っていった。

 あの向こうから椿はやってきて、窓のとこまで行って、と足跡が残した行動を辿る。一度クラブハウスへと入っていったひとり分の足跡は、次にふたり分になる。仲良く並んで歩いて、白く覆われたグラウンドを眺めた。
 今立っている足元の跡が乱れているのは、椿が急にキスをしてきたから。
 来た道を戻っていく歩幅は広い。

 椿の背中が建物の陰にかくれるまで見送って、向きを変える。
 ――ひとり部屋に帰る男の背中は少しさびしそう。

 そんなことに思い至る者はいるんだろうか。
 もしそうならよっぽどのロマンチストだ。――友だちになってもいい。



 *



 案の定二度寝をして、遅刻気味に外へ出て見ると、先刻とはうって変わって眩しい日差しに迎えられた。
 ものの数時間のうちに、積雪はあらかた融けてしまっていた。
「まあ、東京なんてこんなもんか」
 朝日に照らされた白い世界はもう夢のよう。今はいつもの鮮やかな芝のグリーンが輝いている。

 卵サンドを片手にコーチ連と今日の予定を話し合っていると、もうすでに揃っている選手たちが次々とあいさつをしていく。やがて椿も近寄って来て頭を下げて行く。
 照れくさそうに合わせた瞳に軽く笑いかける。
「謎々が消えちゃったな」
「……っス」
 残念なような、ほっとしたような。
 だけど確実に椿はまたひとつ、自分の心に何かを刻んだ。
 それをいつか、そう、今度東京に雪が積もったときに、教えてあげよう。
 

バキタツ#2