Novel

彼について2


 東京から甲府は案外近くて、地図で見たらほんとすぐ、って感じ。同じJ1のチームならもっと遠くいところ北海道とか九州にもあるわけだから、車で行けるのはまだましだって、思った。
 例えば普通の勤め人が週末利用して一泊旅行する、そんな距離。
 だから、俺がハマのとこ行ったって別におかしいことじゃない。
 ――だってまだ好きだとも言ってもらってない。
 ――好きだ、って言ってない。



 
 ばたばたと、本当に急に来たハマの移籍話。
 なにも聞かされてないことにまずショック受けて、ハマが移籍はしないって皆の前で言ったからひと安心して。でも何かすっきりとしない気持ちもあった。
 ハマはETUに恩返ししてないって、そう言ったんだ。ETUでやりたい、が第一じゃなくて。
 例えば移籍の話が来たのが俺だったら、条件がどんなに良くても国内ならまず断る。達海さんのサッカーは面白いし、その中で自分が使ってもらえるようがんばりたい。
 自分もうまくなって、チームも強くなって、そういう喜びを皆と共有したい。
 でもハマの中には迷いがあるような感じがした。
 長く同じチームにいて、それくらいにはハマのことわかってるつもりだった。

 監督とじっくりと話をしたあとのハマの顔は、まるっきり別人みたいにすっきりしてた。
 だから俺は、ああ、こいつは決めたんだってそう思って、淋しくても見送ろう、そうしなきゃいけないんだって覚悟を決めた。
 でもそれはあくまでも友だちとしてだ。

 友だちにはキスしない。
 そしてそれがうれしかったら、もう友だちじゃないだろ。

 たった一回の短いキスで、俺たちは恋人同士になった。

 なのに俺はそこでテンパって、ハマの前から逃げてしまった。
 落ち着いていろいろと考えられるようになったのは、ずっと後になってからだった。
 次の日には朝の挨拶だけで、ハマは甲府へ行ってしまったし(いや、もしかしてまだ何日かはいたかもしれないけど、練習後に押し掛けて行って、なんて気分じゃなかった)、何より俺は淋しさを紛らすことで精いっぱいだった。
 毎日当たり前に顔合わせてたやつが今はいない。
 大好きな人がいない。
 


 そうやって練習の時間以外はなんだかぼうっとした日々を送っていた。
 ハマは甲府で練習を始めたって日にメールをくれて、それからは電話もするようになった。電話越しの声はなんだか前より優しくなって、少しくすぐったかった。
 好きだよ、なんて言葉もないそんな繰り返しで中学生、へたしたら小学生みたいな遠距離恋愛生活をしていた。 
 けど、当然のようにやってくる欲求、つまり身体がもやっとした日。
 ベッドの上でパンツをずらして、さて、となって。
 あれ? ハマってさ、こういうの何つかってんだろ、って思った。
 俺は今までは好みの感じの女の子のグラビアとか見てたけど、付き合ってる相手がいるならそっちじゃねえ? って。
 そしたら、ハマは俺のこと頭の中でやってんのか、それはどんな風にだろう。この間ちょっとだけしたのじゃなくて、もっとちゃんとしたキスしたらどんな感じだろう、とか、もうほんとに想像するしかないけど、この手があの大きなハマのだったら、とか。
 それで全く問題なくフィニッシュまでいけたから、身体がすっきりしたのとは逆に、もう気持ちが辛抱たまらない、って感じになった。
 そしたらどうしても、もう直接会うしかない! って盛りあがった結果、次のオフの日には甲府にいた。


 ◇


「へーいい部屋じゃん」
 変わらないハマの笑顔にほっとして、それからすごく気恥ずかしい気持になってなんだかハマの顔がまっすぐ見られなかった。
 だってどういうリアクションが正解かわからない。

 ――会いたかった、ハマ!
 そして抱き合ってキス。
 ……なんて急にできるわけない。
 
 ハマもいつもより口数が少ない。
 部屋をきょろきょろ見渡して窓の外の風景見たり、広いなあとか、さすがに片付いてるなんて感想を言ったりする俺にうん、そうだななんて相槌を打つくらい。

「疲れたろ、座ったら」
 勧められたソファに座る。前にはローテーブルと、キャビネットの上には大型のテレビがある。他には家具もなくて、これで大きな観葉植物なんかあったらモデルルームみたいだなと思う。
 すっきりして大人っぽい部屋。
 東京の俺のごちゃごちゃとした部屋とは大違い。
「喉かわいた?」
 そう言いながら持ってきてくれたペットボトルを見てうれしくなる。俺の好きな銘柄のガス入りのほう。
 ハマはそのまま隣に座った。いつも並んで座ってたときより、かなり間を詰めて。
 話しながらちょっと身振りをするとお互いの膝が触れる。そんなことにどきどきする。けど、その先ってどうしたらいい? こんなんだったら部屋にあがったとたんに抱きついてキス、をかませばよかった。そうしたらバカみたいに焦れて、恥ずかしがってること無かったはず。

 それでもきっかけは訪れた。
 ハマが客布団のことなんか言い出すから、俺はなんだそれってなって。
 それで、もう我慢できないってあの気持ちを思い出して、ハマにキスをした。

 会いたくて、触りたくて、もっと。
 ――ハマ、お前はどうなんだよ。 
 思い切って舌を入れてみたら、すぐにハマのが絡んできた。
 この間の少し唇がくっついただけのキスとは違う。初めての距離の、初めての熱。それが全然気持ち悪いなんてことなくて、夢中で膝にのりあげるようになった俺を、ぎゅうっとハマは抱きしめてくれた。
 あったかくて、苦しくて、やっぱり泣きそうになる。
「なんかハマ、余裕なのな」
「そんなことないよ。すごくどきどきしてるって。キヨの方から来てくれて安心したっていうか。くっつこうとしたら、やっぱり無理、とか言われたらキツイだろ?」

 そんなこと言っても、にこにこと笑うその顔はやっぱり余裕たっぷりに見えた。
「ハマ、急に大人っぽくなったっていうか、そりゃ元々もう大人だけど、なんかさ……」
「余裕なんかないけど、気持ちの差っていうのはあるよ。俺にとってETUはさ、高校出てからの学校の延長みたいな感じだったんだよな、今思うと。もちろんプロとしてとってもらった訳で、自分なりに一生懸命やってたつもりだったけど、やっぱり甘かった。5年もサブでのうのうとしててさ、たまに出してもらえて満足なんて、だめだよ、ほんと」
「それは、俺だって同じだし」
 ほんとだめだめじゃん、とハマの目を見つめる。
 いいやと、ハマは首を振った。
「キヨはちゃんと達海さんのやり方を吸収して、ETUで伸びていってた。――キヨの方がよっぽど覚悟できてた。言ったろ? 俺が甲府行く決心したのは、お前のプレーを見て気付いたからでもあるんだ。俺はあれだけ試合に出してもらってたのに、全然わかってなかったんだなって、恥ずかしかったよ。それに比べてキヨ、お前はすごいよ、俺の誇りだ」
 
 思いもかけないハマのほめ言葉にびっくりした。けど、結局そんな真剣な打ち明け話をされておたおたしてるのは俺の方で、やっぱりハマはずるい。

「だから、ハマ、そういうの真面目に言っちゃうとこがさ、なんか敵わないっていうか」
 しかも人のこと膝の上に乗っけて抱きしめながら、だ。
「だって、キヨには思ってること全部言いたいんだ。――ずっとキヨのこと好きだった。いつからこうしたい好き、だったかはわかんないけど」
 こうしたい、のとこでハマはちゅっと音をたてた軽いキスをした。
「あのまま気付かないで離れなくて良かった。キヨがさ、教えてくれた。ありがとな」

 俺だってわからなかった。ただ、家の前まで送ってもらった時、最後に笑ってじゃあなって言おうとした。でもできなかった。腹の中がどんどん冷たくなって、体が固まったみたいになって、どうしようどうしようって気持ちがぐるぐるしていた。

「俺じゃない。ハマが――」

 あのとき大きなハマの手が俺の腕を引っ張って、次の瞬間には唇に、唇が触れた。
 そしたら体中がわっといっぺんに温かくなって、全部ほどけた感じがした。
 すごく近くにハマの真面目な顔があって、それ見て俺は泣きそうになった。
 俺は、ハマが好きだった。そしてハマも。
 
「それなら、俺たちタイミングぴったりだったな。すごくラッキー」
「そうなのかな」
「そうだよ。ETUにいたままだったら、キヨがこんなにかわいいなんて気付かなかった、きっと」
 ターニングポイントってあるだろ。そうハマは続けた。
「あんな選択するのなんて初めてだった。ETUでだったら、達海さんは俺を待ってくれるってそう言ってくれた。でもさ、なんでだろ、難しい方を選びたくなったんだよな。俺にはそれが必要だって、達海さんと話してからようやくわかった。そしたらキヨは俺へのプレゼントかなって。がんばるのはこれからだけど、前借りな」
「俺、そんないいもんじゃないよ」 
「なんで? 俺は今すごく幸せなんだけど。本物のキヨ抱きしめられるし、キスしてもいいし、――ベッドに連れ込んでもいいんだろ?」

 さっき自分でも同じようなことを言ったけど、改めてハマの口から聞くとうわあってなる。
 でも、なんでもない振りでうんと、頷く。
 だってそのために来たんだから。
 


 もうすっかり夜だから寝室は暗かった。
 ハマがサイドテーブルのうえのライトを点ける。――サイドテーブルとかあるし。
 それでも仄かな黄色い明りの中に、ラックにかかった見覚えある服とか、スニーカーの箱なんかが積んであるのが見えて、少しほっとする。
 何もかもが変わってくわけじゃない。
 ここにいるのは、俺の大好きなハマ。 
 前と違うって感じるのはしょうがない。だって、今俺はハマに恋してるんだから。 

 東京の部屋に置いてあったのとはかなり大きさの違うベッドに腰掛けて、ぽんぽんと手で確かめてみる。ホテルのみたいにしっかりとしている。
「まあ、広さもあるしな。キヨいつも遠征の時ホテルのベッドが寝やすいって喜んでただろ」
「俺のせいっていうか、そういう目的かよ」
「大事だろ? 実際快適だし。んでさ、キヨ。俺どこまでしていいの?」
「へ? あ……」

 途中寄ったドラッグストアで買ったもののことを思い出す。
「俺、そういえば買ってきた。ローションと……」
 コンドーム、はちょっと口に出しにくい。
 ハマはちょっと驚いたような顔をした。
「……キヨに、使っていいの? それともキヨがいれたい?」
「そういうのがわかんないから、一応……。大体お前こそどうなんだよ」
「俺? 俺ならもうキヨのこと何回も頭ん中でやっちゃってるから」
「なっ……、いつ……からだよ」
「キヨに最初にキスした後すぐ。うち戻ってから、キヨかわいかったな、って反芻してたらなんか反応してた」
「全然そんな感じじゃなかったじゃねえかよ!」
「電話のキヨの声やばいよなあ。何回録音しようかと思ったか」
 もちろん電話ではエロいことなんか話してない。毎日の練習のこととかお互いの近況くらい。なのにそんなんで抜けるなんて言われちゃあ。
「だからさ、俺も買ってあるんだけど。キヨに使っていい?」
 ハマはサイドテーブルの引き出しを開けた。出たよ、サイドテーブル。そして、中には例のブツ。
「――とりあえず、それでいい」
 もう俺は頷くしかないだろう?

 
 ハマの裸なんてもう見慣れてるし、何も恥ずかしいことない。
 だけど直に触れる体温は知らない。のしかかってくる身体の重みも。
 そしてどんな感じだろうって思ってたハマの手が、身体のどこ触っても嫌じゃなくて、すごく気持ちよくて、もっと別のいろんな感じがした。
 ハマだから。俺はハマが好きだから。
 あっ、と思う。
「ハマ、ハマ、ごめん……」
「なに?」
 はっとしたように身体を引くハマに、違う違うと首を振る。手を伸ばしてその腕に触れる。
「好き、ハマ。俺、まだちゃんと言ってなかった」
「なんだ。……びっくりした。やっぱナシかと思った」
「ごめん……」
「あやまるなよ。わかってたけど、改めて聞くとうれしいな」
 ハマがまた身体を倒してキスをくれる。その首に腕をまわしてぐっと引き寄せる。
 好きだよ、ハマ。だからもっと。早くお前の熱を全部俺にくれ。

 
 ◇


 汗ばんだ肌をくっつけているのがこんなに心地良いなんて、不思議だけど、本当のところだった。
 痛みを通り越した先のあの快楽も。
 ハマだから許せた。好きだなあ、って思う。こうやって、息が鎮まるまでじっと抱き合っているのもすごくいい。
 目が慣れて良く見ると、寝室の壁には一枚だけポスターが貼ってある。甲府のポスターだ。
 下の方にホームゲームの日程が入っていて、後期の終盤にはETU戦がある。
 ハマの腕のなかでぼんやりと見てると、ハマも気づいて「もう少し先だな」って言う。
「ETUのは貼ってなかったのに」
「なんか気合い入れようって思ってさ。まずはスタメン、それから来期にはポスターにもどーんってでっかく載るように」
「そっか」
「うん」
 クラブハウスの廊下に貼ってあるETUのポスターを思い浮かべる。俺も頼んで一枚もらおうかなって考える。ハマとの対戦を楽しみに。

「キヨ、あのさ。ほんとにこっち来てくれてうれしかった。でも俺はさ……シーズン終わるまでは東京へは行けない」
「わかってるよ、そんなこと。中途半端はいやなんだろ? 今回は俺が勝手に来ちゃっただけだし」
「終わっても、結果次第では合わせる顔ないかもしれない」
「弱気なこと言ってんなよ。ハマは達海さんにも、甲府の監督にも、俺にだってモテモテなんだ。絶対やってやるって言えよ」

 移籍話のあとからこっち、初めて聞いたハマの弱音のようなもの。
 電話やメールで、ハマが俺に会いたいとか、冗談にでも遊びに来て、なんて言わなかったのは、ハマにもやっぱり不安な気持ちがあるってことだった。
 急に落ち着いたように見えたハマがそんなで、少しほっとした。
 だって、俺ばっかり囲われていいこいいこされるのは何か違う。
 俺だって、男なんだから。

「うん、キヨ。そうだな。今度ETUと当たるときには俺絶対スタメンにいるから。お前がサイドから上がってきても、自由にクロスなんて打たせないから」
「いやいや、華麗に抜いてアシスト決めるから。なんならゴールもさ」
「だめ」
「あ?」
「俺のいるピッチで、もうキヨにはいい顔させない」
 そうハマはきっぱり言って自分こそすごくいい顔で笑った。だからそれが余裕なんだってと思いながらも、胸がきゅうんとした。悔しいけど。

「よかった」
「何が?」
「俺の、恋人のハマとさ、友達だけどライバルのハマ。ちゃんと二つの顔があるって思って。変な感じだけど、それがかっこいい」
「じゃあ、キヨも。すげーかわいくて色っぽい、全部俺のもんのキヨと、ETU期待のサイドバックのキヨがいるんだな」
「……まあそう」
「どっちも大好きだよ。なあ、もう一回していい?」
 ――今度は後ろから。

 そうささやきながら、返事も待たずにひとの首筋をぺろんと舐めた。
 ハマはひどい。恥ずかしい。
 絶対わざとだ。

 真面目な話から急にエロに突入する。大人になった、を飛び越えてオヤジになっちゃったんじゃないかってくらい。
 友達と恋人に見せる顔は違う。わかってるけど、ほんと恥ずかしい。
 いちいち反応してたら心臓がもたないくらい。
 今までよりずっと優しくて、激しい。知りたいなんて考えたこともなかった、そんな顔。
 それは、俺だけが知ってるハマ。
 

 ◇


 これまでは毎日会ってたから、とりたてて思い出すってことがなかった。
 けれど今はすぐには会えない。会わないって決めた。
 だからひとりになった夜は、ハマのことを考えるようになった。
 間近で見つめてくる真剣な表情や、優しいしぐさ、抱き合った時の体温、思いがけないところで感じた固い指の感触とか。
 ひとりでするときとは違う、自分の体なのにコントロールできないあの感じ。
 勝手に漏れて出た声とか、涙とか、ハマ、ハマって何度も名前を呼ぶしかできなかったこととか。
 そういうの思い出すと。
 ギャーっと。
 叫びたくなる、叫びたくなる、叫びたくなる。
 恥ずかしくて、愛しくて。
 それから少し、さびしくて。

 この気持ちを、大事に大事に胸に抱えていたい。
 時には、誰かにぶっちゃけたい。
 ハマ、どうしたらいい。
 お前も、ひとりでこんな風なのか?
 もしそうなら、うれしいんだけど。
 
 それなら頑張れる。せつない夜を、もうちょっとだけ。
 

ハマキヨ#2